■研究炉における中性子散乱研究■


東京大学物性研究所付属中性子散乱研究施設長   藤井 保彦

 ちょうど1年前、1994年ノーベル物理学賞が中性子散乱の生みの親であるブロックハウス(加)、シャル(米)両教授に授与されたことをご記憶の方も多いと思う。 スエーデン王位科学アカデミー発表の受賞理由の説明文には、中性子散乱の原理を紹介した図(図1はその概略)が添えてある。

図1.1994年ノーベル物理学賞授与理由の中で使われた中性子散乱の原理図の概略

 中央が中性子ビームの光源(線源)としての原子炉であり、そこから出てくる連続的な速度分布を持った中性子(白色中性子)の中から、 ブラック反射を利用して結晶モノクロメーターにより一定の速度の中性子(単色中性子)だけを選び出し、実験対象である試料に当てる。 そして、左方の図がシャル教授の受賞理由に相当するもので、試料によって散乱された中性子ビーム強度の散乱角依存性をカウンターで計測して、 物質中の原子の種類とそれらの位置、すなわち結晶構造を決定するものである。 これは中性子が原子を構成する原子核と相互作用する性質を利用したものである【核散乱】。 中性子はまた最小磁石としての性質(スピン)を持っているので、物質中に磁気的性質を担っている原子があればそれらの原子磁石と力を及ぼし合って散乱され、 この現象を利用して磁気構造も決定できる【磁気散乱】。 一方、右図はブロックハウス教授の受賞理由に相当するもので、一定の速度を持った中性子が試料によって散乱された後の速度を3番目の結晶アナライザーで測定し、 散乱前後でいくら速度の変化があったかを分析し、物質中の原子の運動状態(格子振動などの励起)の情報を悦得るものである【非弾性散乱】。 これらは規則的な配置をして、連携して運動している原子によって散乱された中性子が互いに干渉して、波でいう「波紋」を生ずる散乱であるが【干渉性散乱】、 無秩序を反映して波紋を生じない散乱もある【非干渉性散乱】。
 原子炉での中性子散乱実験に用いる中性子は、その速度が4Km/秒(波長にして約1Å)の【熱中性子】と呼ばれるものから、 それより遅く1Km/秒〜500m/秒(波長4〜10Å)の【冷中性子】と呼ばれるものまである。 速度の違う中性子の使い分けは、丁度カメラのズーム機能に相当する。 熱中性子では原子一つ一つの種類とそれらの位置等の細かなズームアップした構造(結晶や磁性体の構造)を撮影(観測)できるのに対し、 冷中性子を用いると遠方に離れて多数の原子が集まってできた集合体の形(高分子や蛋白)を観ることができる。 すなわち、前者は一本一本の木の種類とそれらの位置が分かるのに対し、後者はそれらの木が集合してできた森の形が分かると言える。
 このように中性子散乱は
   【熱中性子】 【冷中性子】
   【核散乱】 【磁気散乱】
   【弾性散乱】 【非弾性散乱】
   【干渉性散乱】 【非干渉性散乱】
の16通りの組み合わせにより、様々な角度から物質を構成する原子や分子に関する情報を得ることができる。 従って、中性子散乱は物性物理、化学、高分子、生物、材料等の研究において最も強力な実験手段として知られている。 原研研究炉(JRR-2,JRR-3M)には、これらの組み合わせによって決まる測定方法に最適化した多数の中性子散乱装置が設置されている(原研8台、大学15台)。
 物質の構造を研究する類似の手段として、X線回析や電子線回析がよく知られている。 これらは基本的に電子(電荷)により散乱されるので、物質による吸収が極めて大きく表面付近の情報しか得られない。 一方、中性子は電荷を持たないので透過力に優れ、物質全体の情報を得ることができる。 さらにこれらの手段では、上記の磁気散乱や非弾性散乱の現象を観測するのが特殊な場合を除いて極めて困難であるため、 特に最近話題の高温超伝導体の機構に関連した磁性とゆらぎ(運動)の研究は中性子散乱の独壇場であると言える。 また、X線回析では水素のような電子数の少ない原子からの散乱強度が微弱なのに比べ、核散乱する中性子ではそのようなハンディーはないので、 蛋白質や酵素等、水素原子が主要構成要素の一つである生体高分子の構造研究にも適している。
 明るい電灯のもとでは物がよく見えるように、強度の強い中性子ビームを使うとより詳細な情報を得ることができる。 1990年に稼働し始めた改造3号炉(JRR-3M)は、世界的に見ても5本の指に入る強力な原子炉中性子源であるが、 新設された「冷中性子源」からの冷中性子の利用は我が国における中性子散乱研究分野を飛躍的に拡大させた。 図2は、原研研究炉に設置してある大学側中性子散乱装置の共同利用研究の動向を、利用者数と課題申請数で表したものである(一部東大原総センター資料)。 1990年以降の急激な増加は目を見張るばかりであるが、既に深刻なビームタイム(実験割当時間)不足に直面しているのが現状である。

図2.JRR-2、JRR-3、JRR-3Mに大学側が設置した中性子散乱装置の利用者数と申請課題数の年度毎の変化