先端基礎研究センター 超流動反応場研究グループ   荒殿 保幸

 近年、化学反応におけるトンネル現象に関する研究が盛んになり、宇宙空間での星間分子の生成過程の研究等への広がりを見せながら、 低温化学といわれる研究分野が確立されつつある。 我々は、低温で超流動に代表されるような非常に特異な物性を示す液・固体ヘリウム中での原子・分子の化学挙動の研究を進めている。 本文では、研究炉を利用した低温化学反応研究のためJRR-3実験利用棟ビームホールに設置した「低温化学実験装置」(写真1)と同装置を利用した 3He-4He混合液体中でのトリチウム原子の低温化学反応についての実験結果を簡単に紹介する。
 装置は、照射中に発生するγ線や散乱中性子線を吸収するための遮蔽体及びビームライン上にセットされたクライオスタットを中心にして、 温度制御(減圧制御法)系、試料ガス(3、He4He等)操作系、放射能(γ線、中性子線) 測定系等から構成されている。装置の大きな特徴は、

(1)超低温(1.3K)で40時間以上の照射が可能である。
(2)純粋な中性子照射場である。(炉内放射線による影響が無い)
(3)±0.01Kの精度で温度制御が可能である。

こと等である。 中性子束は 3-4x106n/cm2/sec(熱中性子)及び 5-6x107n/cm2/sec(冷中性子) であるが、前段の即発γ線分析装置(PGA)用試料の吸収により若干変動する。 試料ガス操作係からの試料(3He-4He混合ガス)は、 内径1mmのステンレスパイプを通ってクライオスタットのビームライン上にセットされた照射内容器中に希望温度で冷却凝縮する。 温度、蒸気圧が平衡に達したら、ビームシャッターを開けて照射を開始する。 試料の位置、凝縮状態などは中性子カメラでモニターする。
 よく知られているように3Heは、中性子を吸収して、 プロトン(P)とトリチウム原子(3H、T)を発生させる [3He+n→P+3H(T)]。 反応のQ値から計算するとプロトンの初期運動エネルギーは576keV、トリチウム原子のそれは192keVとなり、この状態では化学反応できない。 幸いプロントやトリチウムの周囲には不活性で質量の近いヘリウム原子が大量に存在する為、 それらとの衝突によってエネルギーを失い最終的には媒体と熱平衡状態の水素原子(H)やトリチウム原子となり、それらは次のような再結合反応により水素同位体分子として安定化する。

H+H→H2・・・(1)
H+T→HT・・・(2)
T+T→T2・・・・(3)

 水素原子同士の再結合反応は最も簡単な化学反応であることから古くより実験、理論の研究対象となってきた。 但し水素原子、重水素原子に関する研究のみであり(2)、(3)のようなトリチウム原子についての研究は無い。 実験の概念図と結果の一部を図1に示す。 H2、T2は等核2原子分子であるため原子核スピンの方向によってパラ(para)体とオルト(ortho)体が存在する。 (1)や(3)の反応においてパラ体とオルト体がどのような割合で生成するかは反応理論的な検証を行う上でも重要である。 そこで、上記実験装置を利用して(3)の反応を行わせ、生成物T2のパラ体とオルト体の割合をラジオガスクロマトグラフ法で調べた。 1.42-2.50Kの全ての温度領域で図1のガスクロマトグラムにに示すように90%以上がオルト体であった。 低温におけるオルト体の優先的生成はH原子同士の再結合反応理論の予測と定性的には一致する。 但し従来の理論に対する異論もあり理論的な決着はついていないが、ともに核スピン1/2を持つH、T原子の再結合反応において、 低温ではオルト体が選択的に生成するという実験結果は、理論構築の際重要となろう。
 液体ヘリウムは、第2の液層「超流動相」を持つ特殊な量子媒体であり、その中の電子、原子、イオンはバブルやスノーボール等の独自の構造をとる。 従って、一般的には同位体間の反応性の違い(同位体効果)は表れない(1)-(3)の反応も液体ヘリウム中では異なる反応様式をとると予測される。今後の研究課題である。


写真1.低温化学実験装置(JRR-3、ビームホール)

図1.液体ヘリウム中でのトリチウムの低温化学反応研究概念図と
中性子照射液体ヘリウムのラジオガスクロマトグラム
(↑及び↓はトリチウム原子の核スピンの向きを示す)