●先端基礎研究センター 原子トンネル反応研究グループ 荒殿 保幸
水素同位体には、軽水素(H)、重水素(D)、三重水素(トリチウム、T)がある。従って水素同位体分子としては、
H2、HD、HT、D2、DT、T2の6種類が存在する。
水素は周期表の中では最も軽い元素で、かつ同位体間の分子量が大きく異なることから、低温にすることによって熱反応を抑制すると、
トンネル効果による化学反応が顕著に現れ同位体分子間での反応性の違い(同位体効果)も極めて大きい。
水素同位体の中では、Tは半減期12.3年で弱いβ線を放出して3Heへ壊変する唯一の人工放射性核種であり、
原子炉を利用して3He(n、p)Tあるいは6Li(n、α)T等の中性子吸収反応によって作られる。
本研究は、水素同位体及びその分子の関与する低温化学反応の研究の一環としてTの化学反応を特にトンネル効果の観点から検討するために行っているものである。
反応媒体には、3He-4He混合溶液を用いた。
相図を図1に示す。反応種であるTは3He(n、p)Tによって作られる。
相図から分かるように、2.2K以下においては、3Heと4Heの比及び温度を変えることにより、
反応媒体として超・常流動のいずれかの相を任意に選択できる。従ってこの様な反応媒体を選ぶことより、
Tのトンネル反応の観察に加えて、反応に及ぼす超・常流動の効果を調べることが出来る。
3He-4Heの相図
3He-4He混合ガスに一定比のH2-D2ガスを添加した試料を
1.30±0.02Kに冷却しJRR-2のDMNSで約50時間あるいはJRR-3MのTAS-1で約10時間の照射を行った。
この時の溶液の3Heと4Heの比は0.287:0.718(超流動溶液)及び0.670:0.330(常流動溶液)である。
照射中性子束は8.4x1010m-2sec−1(JRR-2、DMNS)及び
3.1x1011m-2sec-1(JRR-3M、TAS-1)であった。
これらの照射孔はいずれも中性子散乱実験用のため、付随するγ線は極めて低く反応への影響は無視できた。
照射終了後、生成物(いずれもHT及びDT)をラジオガスクロマトグラフィにより分析した。なお、JRR-3Mでは中性子束が高いためT1(1%以下)も生成する。
実験結果を表1に示す。反応は以下の(1)、(2)に示す水素引抜である。
T+H2→HT+H…(1)
T+D2→DT+D…(2)
生成物収率から同位体効果I、を求めると表1に示すように、超流動溶液中で158、常流動溶液中で146となった。ここに I=(HT/H2)/
(DT/D2)=(HT/DT)/(D2/H2)であり、反応(1)及び(2)の速度定数の比に相当する。
即ち、Tは約150倍早く軽水素(H2)と反応することを実験結果は示している。なお、壁効果の影響については考慮した値である。
表2に、これまで報告されている水素引抜反応の同位体効果の温度依存性を示す。室温では1〜3の値であるが77Kでは7となり、低温になると大きくなる傾向が現れ始める。
(1)、(2)は約110cal mol-1の活性化エネルギーを必要とする反応である。
したがって、アレニウスの式に代表される古典的反応理論によると、本実験温度では反応速度は非常に遅くなり実際上進行しない。
しかしながら、本実験で得られたように、1.3Kという反応温度でも反応が進むということや非常に大きい同位体効果が現れること等から判断すると、
ここで観察されたTによるH及びDの引き抜きの過程は、トンネル反応機構によりもたらされたものと結論することができる。
本実験結果は非経験的反応速度論から求めた同位体効果の理論的予測値とも定性的に一致する。
表1.T+H2(D2)→HT(DT)+H(D)の同位体効果(1.3K)
3He:4He | 反応媒体 | 反応物質 | HT(%) | DT(%) | 同位体効果 |
0.282:0.718 | 超流動溶液 | H2/D2=1/9,1vol% | 94.6±1.1 | 5.4±1.1 | 158 |
0.670:0.330 | 常流動溶液 | H2/D2=1/9,1vol% | 94.2±0.8 | 5.8±0.8 | 146 |
表2.T+H2(D2)→HT(DT)+H(D)の同位体効果の温度依存性の実験値(文献値)
相 | 実験温度 | 同位体効果 | T生成法 | 備考 |
気相 | 室温 | 2.7 | 3He(n,p)T | スカベンジャー添加 |
気相 | 室温 | 1.55±0.06 | 3He(n,p)T | スカベンジャー無 |
気相 | 室温 | 0.98±0.03 | TBrの光分解 | |
固相 | 77K | 7 | 6Li(n,Α)T |
以上、研究炉を利用したTのトンネル化学反応について紹介した。用いた反応媒体は液体ヘリウムである。 液体ヘリウムは、質量が小さいことや原子同士の相互作用が反発的であるために、 本実験温度のような低温ではゼロ点運動が非常に大きく液体・固体水素と並んで代表的な量子媒体である。 液体ヘリウム中の原子、分子、荷電粒子等の異種物質は、液体ヘリウムの量子的性格を反映して、バブル、スノーボール、クラスター等を形成し、 他の重い希ガス中とは非常に異なる様相を呈する。これらに関する研究は、これまで低温物性物理分野で行われてきており、 最近はレーザー分光学的な方法によるそれらの構造等についての研究が盛んである。ここで紹介したTの化学反応のように、 原子の組み換えを伴う化学反応の場として液体ヘリウムを利用することによって、化学現象から、液体ヘリウム中での異種物質の特異な形態等、 液体ヘリウムの物性的な側面に迫ることができると思われる。